1日1本のアニメ映画を要求する!

嫌いな小説は森絵都の「カラフル」

100.秒速5センチメートル S★

概要:小学生の頃、疎外感を共有できた転校生同士で真摯な恋をはぐくんだ2人のその後と偶然の再会までを描く。

備考:ラストシーンの演出は「海がきこえる」のラストにも通じるところがある。時代を比較すると面白いかもしれない。

 

感想:はっきり言ってしまうと、ストーリーはまったく面白いものではない。だがこの作品はオタク界隈というか、アニメーション映画界隈に落ちてきた「隕石」だった。あるいはラピュタに出てくる「空から落ちてきた壊れたロボット」みたいな。『失恋は本当にあったんだ!』リアルタイムあるいは情緒の柔らかい大学生の頃に見れたものは幸せであり、そうでなかった者は価値観のアップデートを行えない不幸を抱いている。

2007年にこの作品が登場するまで、失恋は露悪的な要素が強いものだった。あるいはパワポケみたいに非現実的だったり。しかし失恋とはすべてが片方の邪悪ゆえに起こるものなのか?何か事件性がなきゃいけないのか?そもそも本当に悲劇なのか?答えはどれも否。むしろ成就よりよほどありふれている。

そしてこの作品は、よくある失恋の物語を新海誠の映像美で表現してしまったのだ。三部作にしてあるのも憎く、間の取り方や演出で引き込んでエンディングを楽しみにさせた上で、このエンディングで叩きつける。この作品はいわば、恋愛という呪縛から解かれる物語なのである。

秒速以前と以降で「アニメ的恋愛観」は大きな転換を迎えたと言ってまったく過言ではない。この作品以降、離別や失恋は決して悪いものではないという情緒が生まれるようになったのだ。

恋愛という半ば神聖視された児戯を、天門のセンチメンタルなBGMを使って、さらなる神聖視を行いつつ鈍色の現実を突きつける。「露悪的ではない、美しい失恋」。まさにすさまじかった。スタッフロールのピアノEDの余韻が、喪失感や絶望感に深い余韻をもたらす。俺が劇場でこれを見れたのは本当に幸運というほかない。いわばオタクというサルは、この作品でモノリスに触れて知性を得たのである。

当時このエンディングにすごくショックを受けたオタクは多かった。今のnoteみたいな感じで、お気持ちを表明する(この言葉もまだなかったねぇ)人も多かった。本当にそれだけ賛否を呼んだ。ただ、正直否定的な感想もよく分かるのだ。特に「ものすっごくねちねちしていて気持ち悪い」というのはすごくよく分かる。ナイーヴなナード臭さや常にねちねちした感じの独白がすっきりしなくて、ものすごく気持ち悪いんだよね。だから合わない人には『恵まれた人間が更なる理想を求めて、誰もが手に入れられるわけではない素晴らしいものを自ら捨てていく最低な物語』でしかない。そこは年食って色々な作品に触れてから見直すと改めてそう思うし、どんな感想を抱くのも自由だと思う。ひとつ言えるのは、この作品の感想がそのまま情緒のリトマス試験紙になるという点。登場人物のどちらかをあしざまに言うような感想は、ニチアサとVtuberで義務教育を終えた出来損ないにすぎない。この作品を理解するには、繊細な情緒が必要。そしてそれは、ニチアサやVtuberでは絶対に養えないのだ。

断言してもいいが、すっかり大衆化してしまったオタク文化で今後このような繊細な作品が生まれることは『絶対に』ありえない。そしてこの作品を楽しめる者は、感想をそっと胸の中にしまっておく。この作品はいわば「灰羽連盟」のように、カスみたいなオタクに土足で踏み入られることを厭う者がそっとしまっておくシークレット・ガーデンなのである。

この作品を楽しめることは、いわば知性と品性が完成している証なのだ。

 

考えてみれば恋愛というのも、ユビキタス化、アメリカ的価値観、ソシャゲの最初から好感度MAXキャラにすっかり侵略された現代社会では「セックスのための都合のいい間柄」に過ぎないのかもしれない。2020年代には女性の権利のうんたらで「恋愛の否定」を美学にするつっまんねぇアメリカ映画が増えてきた。あるいはこの時期は小中学生には「携帯電話」は縁のないものであった、ということを理解できない人もいるかもしれない。この作品はまさに、時代の移り変わるはざまに存在していた奇跡。

ちなみに漫画版と小説版があるが、どれも微妙に味付けが異なる。小説版はすごいセンチメンタルな筆致で、短い文がつらつらと続いていく感じ。Web小説っぽくて読みやすいと思うが、遠野が割と最低な人間である。漫画版は…秒速が生理的に無理な人の気持ちを理解できた。映像作品が時期なんかにも恵まれて奇跡的に魔作と化したものだったのかもしれないね。