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嫌いな小説は森絵都の「カラフル」

199.ドラゴンボールZ 超戦士撃破!!勝つのはオレだ(バイオブロリー) E

感想:前作は曲がりなりにもブロリーが出ていた。これはブロリーの名前だけ借りた駄作。
感想は以上です。

俺って子供(悟天とかひまわり、トゲピーとか)や、かわいい動物系マスコット(ハイヤードラゴン、魔法少女アニメの淫獣枠)のキャラって昔から嫌いだったんですよね。あいつらって別に物語の中で存在させる必然性がない。表現の規制問題のせいで、殺されたり殴られたりするってことが一切なく、その代わりに真面目に生きているキャラクターがひどい目に遭わされる。
で、聖域化するキャラが存在する理由は商業的な事情でしかなく、物語に対しては完全なノイズにすぎない。絶対にひどい目に遭わない聖域化したキャラであり、どれだけピンチになろうとも「最後は絶対助かるんだろ?」とすさまじく白けた気分になる。これらのキャラクターは、存在するだけで物語の緊張感を一気に陳腐化させてしまう。言ってしまえば出来の悪い特撮でうつっている吊るし紐やファスナーみたいなもんだ。
俺は物語を楽しみたいのだ。ブロリーのような理不尽なキャラは、悟空やベジータのことはいたぶっても、悟天やトランクスにはやるとしてもエネルギー弾で吹き飛ばす程度になるわけで。そりゃアニメで女や子供や老人やペットをいたぶるシーンなんて見たくないってのもわかるんだけど、「それをしないでモブ男や女戦士に執拗に攻撃する『理不尽な悪役』」なんて政治的事情にご配慮してるわけじゃん。やってることは社会の庇護を得られない相手をなぶるだけという、変則的な弱いものいじめでしかない。だからものすごく弱そうに見える。
少し前に「女を殴らないフレイザード」のことが話題になったけれど、フレイザードの魅力ってそういう物語のお約束を破ってくる形で読者に絶望感を与えるところにもあったわけで、こういう形で「聖域」がちらついてしまうと物語への没入感は一気に落ちる。そして聖域が形を成して動いているキャラは、存在しているだけで物語への没入感を削いでしまう。リョナが見たいとか男女平等だとかポリコレがどうっていう幼稚な話ではなく、戦場の理不尽さを暴力をふるうコマとその後の残酷なセリフで表してしまい、だからこそ人気になったキャラだと思うのだ。それを取り除いたら魅力なんて何も残っていないじゃないかって話をしたい。その域で話せるオタクって案外いないのよね。
表現の規制というのも、何か信念があってやっていることというより、そこにいちゃもんをつけてくる人間を刺激しないようにしているっていう要素が強くてねぇ…。商業より同人誌の方が好きだって話を以前述べたけれど、同人誌がアニメ化したというすさまじい異色作「灰羽連盟」とかはタバコを吸うメインヒロインとか自殺という重苦しいテーマとかがあって面白かったよね。商業じゃ無理でしょ。
この理由でドキンちゃんも嫌いで、逆に「子供が軸になっていたり、暴力ではない形でひどい目に遭う」というキャラは嫌いにはならない。クレしんとかぼのぼののイメージ。21エモンのモンガーとか、ポケモンアニメのピカチュウみたいなキャラは「主人公といっしょに程よくひどい目に遭う」タイプなので安心感がある。ドラえもんに至っては劇場版で壊されたり廃棄されたりすることもあり、その時の絶望感はすごい。物語ってのは表現規制との闘いだが、その表現規制との闘いに果敢に挑んだり、逆にそれが見えないようにしている作品は結構好きだ。

フリーザ編の悟飯は本当にいい塩梅で、悟空とは違った形の優しさを主体にピッコロをうまくZ戦士枠になじませていく潤滑剤であり、強すぎるせいで動かしにくい悟空に代わって物語の主人公として活躍していた。
「子供だから守護られなきゃいけない」じゃダメなのだ。「子供なりに知恵や理屈を全力でしぼって大人をやりこめる」から面白い。この映画は前者。ブロリーMADとかでも無視されている理由は一度見ればいやというほどわかる。